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ブユックコレジ校(アンカラ市内)高等部訪問。積極的交流継続の合意。(12) [旅行]

13日の午前中にイスタンブール市内の小中高校(ウルマック校)の高等部を訪問し、

大きな成果を確信したが、14日には、アンカラ市内の幼小中高校(ブュックコレジ校)

の高等部を訪問した。玄関前に高校生の代表が小旗を振りながら歓迎してくれた。

丁度お昼時だったので、学校給食を学生たちと一緒に美味しくいただいた。

ここでの平和交流は、トルコ側も校長先生以下教師、高校生が共に入念な準備と

事前学習を行っており、すべて英語でのやりとりが可能であった。

日本側の平和大使4人は、分担して、自らの日常活動を紹介すると共に、被爆の

惨状を示す写真数枚を掲げて説明し、世界平和のために高校生同士の継続的な

連帯と交流を訴えた。トルコ側も日本側と同じく、代表4名が分担して意見をのぺた。

被爆者からは、中村キクヨ副会長が証言し、「被爆当時私は21歳、爆心地から5.8キロメートル

も離れた場所で洗濯物を干している最中に、突然の爆風に吹き飛ばされました。

幸い外傷はなく、安心していましたが、やがて、海を渡って運ばれてきた、負傷者の救護や

死体処理に携わりました。

その後被爆者として、運動に加わっていた私にとって、悲しいことが起こりました。

被爆2世の次男が、7年前55歳の若さで白血病で亡くなりました。その死因について、

医師から『お母さん、彼が幼児の頃貴女が与えた母乳が原因だと思われます』と知らされた

時の驚きと、原爆の遺伝性の恐怖に打ちのめされ、言いしれない怒りが生まれました。

被爆者運動に長い間携わってきた私にとっては大変なショックでした。

いま、86歳の高齢になりましたが、長崎を最後の被爆地にするため、生涯をかけて

頑張り抜きます」と涙ながらの訴えに、会場は静まり返った。

被爆者手帳友の会は、長崎の被爆者が作成した寄せ書き2枚と千羽鶴2房を高校生

たちに手渡したが、両国の高校生たちの隔たりのない交歓振りには、未来への明るさ

が感じられた。(10月14日)

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