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キューバ革命50周年記念の旅(20:-番外編-)。豚インフルエンザ・成田検疫を無事通過。 [キューバ]

豚インフルエンザ、鳥インフルエンザ、サーズ、炭そ菌など、発生源が

なかなか解らず、素人には対策も不明で、生命の危険をもたらす

流行り病気だからこそ困ったものである。

社会が全く機能停止に陥る状況は、細菌と人類との戦争の感がある。

日本の異常なまでの水際作戦については、電話連絡を受けており、

特に、カナダ経由で成田に帰る予定だったので覚悟はしていた。

キューバ出国とカナダ入出国では、特段な検査はなかったが、

日本からのカナダへの到着便が1時間遅れ、カナダ出発がその分

遅れた上に、成田へ到着してからの機内立ち入り検疫に1時間近く

かかったので、結果的に羽田空港近くに一泊し、長崎到着が延びた。

機内での検疫職員のメガネ、マスク、服装のものものしさに驚いたが、

一人も陽性反応がなく全員解放されたのでホッとした。 

が-、この地球!人間だけの物じゃない事も知らされた。

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キューバ革命50周年記念の旅。 (19) 最後の夜は、「ブエナビスタ・ソシアルクラブ」にて。 [キューバ]

「ブエナビスタ・ソシアルクラブ」は、イブライムさんとオマーラさんが

中心になって、キューバ音楽を長く歌い続け、後世に伝えて来た

キューバでは、最も有名な、音楽集団だときいていた。

楽団の演奏者は皆さん一流ながら何しろ高齢者が多く、10年ほど

日本でのキューバブームの際に来演されたのは、驚異的だと評された

ものだった。

イブライムさんはじめ、演奏者の何人もが90歳を超えておられたからである。

実は、2000年11月13日、昼食に立ち寄ったキューバのレストランで、

偶然にもご両人にお会いする機会に恵まれた。

とても気さくで私たち夫婦との記念写真に笑顔で応じて頂いた。

来日公演はその後の事だったが、イブライムさんはお亡くなりになったと

聞いている。

現在は、そのお孫さんを中心にバンドを再編成され、キューバ最高級の

ナショナルホテルに舞台を移して活躍中である。

5月2日の夜は、10人のメンバーにダンサーの皆さんの踊りを含めて、

キューバ音楽のすべてを聴かせて頂いた。

感動の3時間だった。

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キューバ革命50周年記念の旅。 (18) 世界一長いベンチ。 [キューバ]

ハバナの旧市街から、モロ要塞を右手に観ながら、新市街に至る

メキシコ湾の海岸線は、7キロメートルに及ぶ防波堤が続く。

道路沿いからひょいと腰をかけて、夕陽を浴び、高く低く身体に伝わる

海鳴りを聞きながら恋人同志で語らうのは、何とロマンチックな事だろう。

この防波堤は海岸保全の役目を果たしながら、「世界一長いベンチ」だと

自負され、家族連れやアベック、釣り人たちの憩いやと楽しみの

場所になっている。

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キューバ革命50周年記念の旅(17)。 「ダイキリ」を飲み、ヘのミングウェイの世界に浸る。 [キューバ]

アメリカ・シカゴ郊外の、オークパークと言う町で1899年に生まれ、

後にノーベル文学賞を受賞した文豪アーネスト・ヘミングウェイは、

62歳の若さで亡くなっている。

彼は、1928年に初めてキューバを訪れて以来、すっかり魅せられ、

常宿の「ホテル・アンボス・ムンドス」で「誰がために鐘は鳴る」を

書き上げ、その印税で1940年キューバに居を構え、1960年までの

20年間をキューバで過ごしたと言う。

「老人と海」の舞台となったメキシコ湾に短時間で出かけられ、

ハバナにも近い距離にある「コヒマル」には、愛艇のヨット「ピラール号」

を係留していた。

ここに来る度に、魚臭い姿で酒を飲んだり、世間話に花を咲かせたらしく、

遂に別の客から苦情が出た。

とうとうこの店の地下室を改造して貰い、「ライオンの部屋」と名付けて、

友人たちと心おきなく騒いだと言う。

このエピソードが残るレストラン「ラ・テラサ」が健在であった。

彼が愛飲した「ダイキリ」に4ペソを支払い、カウンターで、ヘミングウェイ

になった積りで、旅仲間に知ったかぶりして威張って見たが、

あまり受けなかった。

その店の正面に大きな邸宅が廃虚になっていたが、ヘミングウェイが

居を構える時、持ち主から100万ペソと吹っかけられて断念したらしく、

今も無人の様だった。

かつて植民地時代には、別荘地として繁栄を極めた街の面影は薄く、

建物の荒廃と湾内水質の汚染は深刻な事態に見えた。 

5月2日 コヒマルにて。

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キューバ革命50周年記念の旅 (16) 。 5月2日、サンタクララのゲバラ霊廟に再訪し平和祈念。 [キューバ]

ハバナからサンタクララまでは、300キロメートル以上の距離がある。

キューバ革命の最終時期に、決定的な勝利を納めた装甲列車転覆の

戦闘は、1958年12月28日~30日であった。

バチスタ政府軍の動きを事前に察知していたゲバラ司令官は、

わずかに20名の戦闘員で列車通過時の転覆を工作し、火焔壜攻撃で

408名の政府軍を封じ込め、バチスタ軍の司令官に15分間の猶予を

与えて降伏を迫り、完全勝利した。

1959年1月1日の解放記念日の2日前であった。

革命勝利のあと、カストロ政権のもとで、工業相や国立銀行総裁などの

要職について、革命後のキューバ発展に貢献したゲバラだったが、

世界の未解放地域の革命任務を自らに課した彼は、1965年4月1日、

親愛なるカストロの机に「別れの手紙」を残して、キューバを後にした。

1967年10月8日、ボリビア山中での戦闘で負傷した所を捕らえられ、

翌日銃殺された。

それから30年後、1997年10月17日、ボリビアから送り返された

ゲバラの遺骨は、カストロの手に依って、何者にも代えがたい同志との

親愛の絆をもって弔われ、改めてサンタクララの霊廟に懇ろに埋葬された。

「20世紀の最高の革命戦士」ゲバラは此処で永遠の眠りについている。

2000年11月13日、チェ・ゲバラに心酔していた亡妻和子と共に、

この霊廟を訪れたが、今回は、遺影を抱いての祈念であった。

キューバ再訪の理由の大きな一つが叶えられた。 

5月2日、サンタクララにて。

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キューバ革命50周年記念の旅(15)。 2009年 キューバ・ハバナのメーデー。 [キューバ]

2009年5月1日。キューバ革命50周年記念の年のメーデーに参加した。

キューバ訪問団の主要な目的である首都ハバナ・革命広場でのメーデーは、

前夜まで心配されていた天候だったが、正に五月晴れの好天に恵まれた。

毎年100万人規模の大集会らしいが、今年はガソリン事情を考慮して、

各地域での分散開催方式が示されていた。

午前10時開会に間に合う様に、至近の距離ながら、5時半にホテルを出た。

各自が参加証を所持し、登録されたバスで未だ明けもきらぬ革命広場に

到着すると、既に高校生500人規模の合唱団、100人規模のブラスバンド

演奏団による大音響でのフル演奏が始まっていた。

次々に、革命広場のホセ・マルティ記念博物館前に設けられけた壇上を

各国からの来賓や招待者が埋めて行き、開会を前に次第次第に盛り上がり

を見せており、夫々の国旗をかざして夫々の言葉でシュプレヒコールの

練習をしている集団もあった。

10時開会の直前に一際大きな歓声が上がった。

ラウル・カストロ国家評議会議長が到着し、やがて、労働者代表の主催者宣言

と挨拶が行われ、大行進が始まった。

カストロ議長をはじめ、来賓の挨拶はなく、あくまでも労働者や党の祭典だから

であろうか。

怒涛の行進が延々と続き2時間余、革命広場は色とりどりの旗や長大な横断幕、

巨大な出し物が途切れなく、職域毎に趣向を凝らしたパフォーマンスを表現

しながら、心の底からメーデーを祝っていた。

真っ白の制服で行進する医療集団には、平和の「白い戦士」を実感した。

 35万人による2時間余に及んだ最後列に、赤旗を高らかに掲げた集団が

行進して来ると、インターナショナルの大合唱が始まり、革命広場は一体に

なった。私も立ち上がって大きな声を張り上げた。

感動の熱い物がこみ上げ、労働者の団結の底力は、如何なる武器にも

勝るものだとの確信を得た。

5月1日、ハバナ革命広場メーデー。

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キューバ革命50周年記念の記録(14)。キューバの乗り物事情 [キューバ]

キューバの日常的な交通機関は、都市によって異なるが、

」首都圏ハバナの乗り合いバスでは、近代的な3連の大型が

走っているかと思うと、トラックを屋根付に改造しているものも

見られた。

サンタクララでは、馬車が一般的であった。

タクシーは、バラエティにとんでおり、1940年代のアメリカ製の

古い大型乗用車が、キューバ人専用の乗り合いタクシーとして

走っている。観光地には、飾り付けた馬車があり、タクシーには

最新式の乗用車、馬車、ココナツ型のココタクシー、足こぎの

自転車タクシーなどと多彩である。

市内バスは、1回当たり一律0.4ペソであるが、郊外への路線バス

は回数が少なく、ヒッチハイクが奨励されている。

5月1日、ハバナにて。

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キューバ革命50周年記念の旅 (13)。ラテンアメリカ医学校。平和共存の宣教師を育てる。 [キューバ]

ラテンアメリカ医学校は1999年2月に設立され、10年が経っている。

90年代の後半、2つのハリケーンがラテンアメリカを襲い、甚大な被害を

受け、各国とも伝染病で衛生状態が悪化し、キューバは多数の医師団を

派遣した。

医師に初めて出会った地方もあった。夫々の国の事情は区々であったが、

キューバとしても、災害時には一時的に医師を帰さなければならない事もあり、

カストロは各国に「何が必要であるか」を聞いた。

各国は「医療が必要」との事だった。カストロは、キューバに大学を創り、

各国の青年がそこで学び、技術を修得して自分の国に帰り医療に貢献する

仕組みをつくった。

2月の設立時には、ホンジュラス、グァテマラ、ニカラグア、ハイチ、べリス

から学生が来て反響を呼び、11月には18ヶ国から1、933人の学生が

留学して、現在では、ラテンアメリカだけでなく、カリブ海諸国、アメリカ、

アフリカなど28ヶ国から、留学し、卒業して帰国している。

入学に関するプロセスは、全て夫々の国の社会的組織が行うが、

最低条件がある。

貧乏で自分の国で学べない人、医師が居ないところ、高等学校を卒業して

25歳以下の人、テストに合格する事である。

キューバは、学生に対して飛行機のチケットから、寮での生活費、学用品、

制服、各種サービスの全てを負担し、月に100ペソの小遣いまで支給する。

修得期間の6年半のカリキュラムは、入学後20週間は、学生のレベルの

調整、基礎学2ヶ年。3年生からキューバ人学生と一緒にキューバ医科大学

での21科目の医療システムのもとに学び、6年生から、病院での研修後

卒業して自国に戻る。

これまで4回の卒業生は、6、500人。今年は5回目が卒業する。

この大学で身につけた教育の成果が社会的に役立っており、目的は達成

されている。

現在では、毎年1、500人が入学し、4、200人が在学、全国21の医科大学

で6、000人が研修している。

学生の男女比率は半々である。

政治は、価値観を教えている。この学校の目標は「連帯、倫理、人間性」であり、

国民の医療の宣教師を育てている。

国際関係広報責任者の説明は、理路整然と10年間の実績に裏打ちされた

自信に充ちていた。

ラテンアメリカにおけるキューバの不動の地位は、人間の命の尊厳を、

国家を超越して実現している平和的な社会主義政策にあることを学び、

カストロの偉大さに感銘した。

5月1日、ハバナにて。

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キューバ革命50周年の旅(12)。夕食の楽しさ。 [キューバ]

キューバの民族的な家屋のレストランでの夕食。

メインは、豚か魚か鳥の選択だが、豚インフルエンザの影響が

あってか豚を注文する人は一人もいなかった。

庭先の樹をふと見るとザボンのような実がぶら下がり、良く見ると

艶やかな緑の玉が、まるで幹から吹き出すかのようである。

マンゴの種類かと思ったが食べられないらしい。

小さいうちに採ってマラカスに使われているようだ。

「グイラ」の木だと初めて見聞した。 

4月30日 レストラン・ランチョ・パルコにて。

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キューバ革命50周年記念の旅(11)。  完璧なキューバの地域医療体制。 [キューバ]

キューバの医療供給体制が、世界一級の水準に在ることは

良く知られている。

各家庭の個人まで、健康状態が4段階で把握されており、

予防医学が徹底している。

総合病院の下に地域毎に「ポリクリニコ」と呼ばれる最先端医療機関

として、総合内科の所長以下専門医師と看護師、助手、検査技師など

のスタッフが常勤し、24時間体制で救急患者もうけいれる診療所

がある。更に、その下に「ファミリードクター診療所が、各家庭の戸別管理

を徹底している。

視察した「ポリクリニコ」の地域は、人口約22、000人の区域に職員47人

が勤務しており、傘下に総合内科医と看護師及び看護師が常勤する

「ファミリードクター診療所」9ヶ所と薬局を擁していた。

この活動には、ボランティアも積極的に支援している。

これらの制度は、厚生省の管轄下で、特に高齢者、妊娠女性、子ども、

とりわけ15歳~18歳のプログラムなどの医療プランを推進する役割を

担っている。

「人の命を守るのは革命の成果である」と所長は胸を張った。 

4月30日 ハバナにて。

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